昔の旅のめし日記

 大学4年生の春、卒業旅行でタイに行った*1
 「卒業するから旅行する」という理屈も不思議だけど、旅先で友情を確かめながら、またはひびを入れながらひとつのピリオドの終わりを感じることは、青春を感じおさめるにはいい慣習なんじゃないかと思う。

 その旅行は、まずバンコクに行って何泊かタイの空気になじんだのち、マレー鉄道の寝台車で南下してマレーシアに入り、ペナン島で何日か滞在してから再びバンコクに折り返すというプランだった。その折り返しの寝台車がディレイした。最初のうちは、東南アジアではよくあること、とマイペンライタイ語で「無問題」)を決め込んでいた乗客たちも、レールのはしっこが見える炎天下のホームで4時間も5時間も待たされ、さすがに疲れが見えてきた。微笑みが単なるニヤけに見えてきた駅員に聞いても、マイペンライもう来るすぐ来ると繰り返すばかりだった。わたしたちがアスファルトの上で干からびたミミズみたいになった頃、やっと列車が到着し、チケットを手にした人たちに続いて冷房のきいた車内に駆け込んだ。

 チケットの座席番号を確認する。シートを確認する。4人掛けのボックスに2人の欧米人が座っている。ひと目でゲイとわかる小柄な男の人に、その座席のチケットはわたしが持ってるよ、あなたは座席を間違えていませんか? と遠慮がちにチケットを見せた。そうしたら、なんとその男の人は顔を真っ赤にして怒りだした。この座席のチケットは僕が持ってるのよ! この醜い日本人は何を言ってるの!? と感情的に吐き捨てながらふりかざしたチケットには確かにその座席番号が印刷されていた。ダブルブッキングだ。それでもその場を離れないわたしたちを見た彼は、隣に醜い日本人に座られないようにと、2人掛けのシートに横になってしまった。

 初対面の人にそこまで言われて言い返したくても、英語力が追い付かない。ケンカと恋は言葉の国境を持たないというけど、日本語でもケンカができないのに外国で応用できるわけがない。でも、疲れきったわたしたちはとにかく座りたかった。「わかったから、その座席はあなたに譲るから、とにかく縦になって隣に座らせてよ、と交渉しても寝っ転がったままツーンとそっぽを向いて話をきいてくれない。困ったなー困ったよーどうしようーと思案に暮れていたら、隣の車両からタイ人のおじさんが手招きしているのが見えた。


 いぶかしく思いながらもおじさんのところに行くと、カタコトの英語と身振り手振りで「こっちの車両はすいているから座れ」と言っていた。おじさんがとても優しそうだったので言う通りにした。なにより、もう口の悪い彼とはかかわりたくなかった。

 怖かったねー怖かったよイタリア人だよあれー食われるかと思ったよーアグリージャップってひどくない? さきほどのやりとりを反芻していたら、いつの間にか寝台車はひとつ目の駅に着いていて、窓の外を見ると干物を干すような平たくて丸いカゴを持った女性たちがせわしなく歩いている。

 あっあれ買ってる人がいる食べ物みたい行けばよかったでももう発車しちゃうよ残念、と走り出した寝台車の窓の外をいやしく眺めていたら、いつのまにかデッキで買い物をしてきたらしいおじさんが三角の包みを持っていた。わたしたちは確実に、おじさんが持っている三角の包みに興味を奪われていた。炎天下で5時間待たされたあげく、知らない欧米人にいやというほどののしられてお腹が空いていた。

 あれなんだろうねいい匂いするよねでも何が入ってるか分かんないね早く開けて食べるとこみたいね、小声でささやきあっていたら、おじさんは笑って、三角の包みを3つわたしたちに手渡してくれた。ケンカと恋は言葉の国境を持たないという説には、食欲という項目をつけたすべきだと思う。ケンカと恋と食欲は言葉の国境を持たない。

 リュックをしょってハーフパンツで興奮した欧米人にやりこめられていたわたしたちがよほどしぼんでいるように見えたのか、おじさんはわたしたちの分までその三角を買ってきてくれていたのだった。おじさんの見立て通り疲れきっていたわたしたちは、何度もコプクンカーと繰り返しながら三角の包みを受け取った。

 何かの葉っぱらしき包みをおそるおそる開くと、もち米を豚肉と一緒に炊き込んだアツアツのちまきがあらわれた。豚肉の脂が回ってほんのりナンプラーの香りがするもち米と、細切れの肉の塩気が体にしみておいしかった。おじさんはうんうんと頷いて、ちまきがどんなにおいしいかと大袈裟な賛辞を送るわたしたちをニコニコしながら見ていた。

 今まで食べたどんなちまきより、あの寝台車で食べたちまきがおいしかったと思う。正直にいうとどんな味だったか具体的には忘れてしまったけど、あの三角の包みを思い出す時、とびきりおいしかったという記憶と、あのおじさんのようにやわらかく人を迎え入れてほぐすような大人になりたいという願いがよみがえる。

*1:本を読んでいたらタイのことを思い出し、むしょうに書きたくなったのでここに。この旅行でたくさん思い出深いできごとが起こったので、ほかのことについてもまた改めて書きます